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糸岡富子さん—この名前は、日本の生きた歴史書です!

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糸岡富子さん—この名前は、日本の生きた歴史書

糸岡富子さん—この名前は、日本の生きた歴史書と言っても過言ではありません。1908年5月23日、大阪の地に生を受けた富子さんは、まさに激動の時代を全身で生き抜いてこられた方です。

明治から大正への移行期に生まれ、幼少期を過ごした富子さん。その頃の大阪は、近代化の波に乗って急速に発展を遂げていた時期でした。呉服問屋を営む家庭に生まれた富子さんは、きっと華やかな着物の数々に囲まれて育ったことでしょう。その環境が、後の人生における美意識や伝統文化への造詣の深さにつながったのかもしれません。

小学校を卒業後、富子さんはウヰルミナ女学校(現在の大阪女学院中高等学校)に進学されます。この選択からも、教育熱心な家庭環境と、富子さん自身の向学心が垣間見えます。さらに、バレーボール部に所属されていたというエピソードは、若き日の富子さんの活発さと、チームワークを大切にする性格を物語っています。スポーツを通じて培われた体力と精神力は、後の長寿にも影響を与えたのではないでしょうか。

1928年、20歳で結婚された富子さん。夫の健司さんは羅紗商を営んでおり、富子さんは商家の主婦として新たな人生のステージに立ちます。4人のお子様に恵まれ、家庭を切り盛りする傍ら、きっと商売の面でも夫を支えていたことでしょう。

しかし、平和な日々は長くは続きませんでした。戦時中、夫が韓国で繊維工場を経営することになり、富子さんは一人で日本の事務所を守りながら子育てをされたそうです。この時期の富子さんの強さと忍耐力には、ただただ頭が下がります。空襲の恐怖や物資不足の中、4人の子どもを育てながら事業を守り抜いた—その経験は、富子さんの人生哲学の根幹を形作ったに違いありません。

糸岡富子さんの戦後

戦後、日本の復興と高度経済成長を経て、富子さんの人生にも新たな章が開かれます。1979年に夫を亡くされた後、奈良県で約10年間一人暮らしをされたそうです。この時期、富子さんは自身の趣味や興味に没頭される機会を得ました。二上山を好んで登られたというエピソードからは、71歳にして尚、冒険心と体力を維持されていた富子さんの姿が浮かび上がります。さらに、御嶽山を2回も登頂されたとのこと。しかも、登山靴ではなく普通の靴で—このエピソードは、富子さんの「何事も難しく考えすぎない」というポジティブな人生観を象徴しているようで、思わず微笑んでしまいます。

1990年、82歳で芦屋市に移住された富子さん。この年齢で新天地に移り住むその決断力と適応力に、多くの人が勇気づけられることでしょう。80代で大阪33観音巡礼に2回も参加されたこと、100歳で芦屋神社の長い石段を杖なしで登られたことなど、富子さんの晩年のエピソードは驚きの連続です。また、奈良の薬師寺を何度も訪れ、経を書くのを楽しまれていたというエピソードからは、富子さんの精神的な豊かさと、日本の伝統文化への深い造詣が感じられます。

そして2019年、111歳で特別養護老人ホームに入所された富子さん。ここでの生活も、きっと前向きに楽しんでおられることでしょう。カルピスとバナナが大好物だという富子さん。その素朴な嗜好が、長寿の秘訣なのかもしれません。

世界最高齢者となられた糸岡富子さん

2023年12月には日本最高齢者に、そして2024年8月には世界最高齢者となられた富子さん。116歳を超える人生は、まさに奇跡と言えるでしょう。しかし、それは単なる偶然ではありません。困難に直面しても前を向き、常に好奇心を持ち続け、新しいことに挑戦し続けてきた富子さんの生き方そのものが、この驚異的な長寿をもたらしたのだと思います。

富子さんの人生は、私たちに多くのことを教えてくれます。年齢に関わらず好奇心を持ち続けること、困難を恐れずに立ち向かうこと、そして日々の小さな喜びを大切にすること—これらは、富子さんが116年の人生を通じて体現してこられた生き方です。

今も変わらぬ笑顔で日々を過ごされている富子さん。その姿は、高齢化社会を迎えた日本に、そして世界中の人々に、大きな希望を与えてくれています。富子さんの更なる長寿と健康を心からお祈りすると共に、これからも富子さんの生き方から多くを学んでいきたいと思います。糸岡富子さん、あなたは私たちの誇りであり、生きる伝説です。これからもどうぞお元気で!

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