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光る君へネタバレ39話のあらすじ口コミを解説!!

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光る君へネタバレ39話のあらすじ口コミを解説!

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光る君へネタバレ39話のあらすじ口コミ感想の考察

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光る君へネタバレ39話番外編

源氏物語朝顔の視点から物語を語らせていただきます。

あらすじがまだ発表されてませんので、今回は源氏物語の朝顔について書いてみました!

私は朝顔。桃園式部卿宮の姫として生まれ、幼い頃から高貴な身分ゆえ、多くの期待を背負って育ちました。そんな私の人生を大きく変えたのは、いとこにあたる光源氏との出会いでした。

源氏との初めての出会いは、まだ私が若かりし頃のこと。彼の深い眼差しと優雅な物腰に、胸が高鳴るのを感じたことを今でも鮮明に覚えています。しかし、私は賀茂斎院として神に仕える身。恋愛などもってのほかと言い聞かせ、ただ遠くから彼を慕うばかりでした。

それでも源氏は諦めず、何度も私に近づこうとしてきました。贈られる和歌の数々、それに添えられた季節の花々。どれも美しく、心揺さぶられるものばかり。特に忘れられないのは、朝顔の花を添えて贈られた和歌。あの時から、私は「朝顔の姫君」と呼ばれるようになったのです。

歳月は流れ、私は斎院を退きました。そして再び源氏と向き合うことに。彼の情熱的な求愛に、正直心が揺らぐこともありました。でも、私は決して深い仲にはなれないと心に決めていたのです。

なぜか?それは源氏の周りで起こる悲劇を目の当たりにしてきたから。六条御息所をはじめ、源氏と関わった女性たちの苦しみを知っていたのです。私は幸せになりたかった。でも同時に、不幸になることも恐れていました。

だから私は、源氏との距離を保ち続けました。彼の熱心な求愛を柔らかく、しかし毅然と断り続けたのです。時に心が揺らぎそうになっても、強く自分に言い聞かせました。「これが正しい道なのだ」と。

それでも、源氏との交流は続きました。和歌を交わし、時には会話を楽しむ。そんな風流な友情は、私の人生に彩りを添えてくれました。源氏との関係は、まるで朝顔の花のよう。朝に咲き、夕べには萎む。でも、その儚さゆえに美しく、心に深く刻まれるのです。

やがて私は、出家の道を選びました。源氏との思い出を胸に秘めたまま。あの頃を振り返ると、もしかしたら違う選択もあったのかもしれない。そんな思いが頭をよぎることもあります。でも、私は後悔していません。

私の人生は、源氏という輝かしい存在によって彩られました。そして、自分の意志を貫き通すことができた。それは私にとって、かけがえのない宝物なのです。

朝顔の花は、朝に咲いて夕べには萎みます。でも、その儚さゆえに人々の心を打つのです。私もまた、源氏との思い出という美しい花を心に咲かせ続けていきたいと思います。それが、朝顔の姫君である私の運命なのかもしれません。

藤原伊周様をゲストにその生涯を語っていただきます!

我こそは藤原伊周。平安の世に生を受け、栄華と没落を知り尽くした男だ。天延2年(974年)、我が誕生の時から、運命は私に大きな期待を寄せていた。父は後の摂政関白となる藤原道隆、母は才媛として名高い高階貴子。幼名を小千代と呼ばれた我が幼き日々は、まさに光明に満ちていた。学問への渇望は幼い頃から我が心を支配していた。漢籍を読み漁り、和歌を詠み、筆を執れば言葉が滝のように溢れ出る。我が才能は周囲の称賛を浴び、まだ幼かった私の胸に、大きな自負の念を植え付けたのだ。12歳で元服した日のことは今でも鮮明に覚えている。従五位下に叙せられ、伊周の名を賜った瞬間、我が人生は新たな段階に入ったのだ。そして、その後の昇進の速さといったら!我ながら驚くほどだった。侍従、左兵衛佐、左近衛少将と、まるで駿馬のごとく駆け上がっていく。21歳にして内大臣に就任した時の喜びは筆舌に尽くし難い。父の後ろ盾もあったとはいえ、我が才覚がこの地位をもたらしたことは間違いない。朝廷中の視線が我に注がれ、その中には羨望の眼差しも少なくなかった。だが、我は気にしなかった。我が才能こそが、この世界で最も輝かしいものだと信じていたのだから。ああ、あの頃の我は何と傲慢であったことか。しかし、その傲慢さが我を支え、より高みへと押し上げてもいたのだ。文才においては、我に並ぶ者などいなかった。漢詩文を綴れば、それは天上の音楽のごとく人々の心を揺さぶり、和歌を詠めば、聞く者の魂を震わせた。『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』に我が作品が収められたことは、今でも誇りに思う。だが、運命の女神は我に試練を与えることを忘れなかった。長徳2年(996年)、あの忌まわしき長徳の変だ。花山法皇への不敬の罪で、我は大宰府へと左遷された。あの時の屈辱、怒り、そして悲しみは今でも胸に刺さっている。しかし、我は決して諦めなかった。左遷の地にあっても、我が才能は輝き続けた。むしろ、この苦難が我が文学により一層の深みを与えたのだ。「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき」――妹である定子皇后の死を悼んで詠んだこの歌は、我が心の奥底から絞り出された魂の叫びだった。朝廷への復帰を果たした後も、我が人生は波乱に満ちていた。政治的な駆け引きの中で翻弄され続け、時に道長との確執に苦しんだ。だが、我は決して屈しなかった。「儀同三司」を自称し、我が誇りを貫き通したのだ。37歳という若さでこの世を去ることになろうとは。しかし、我が人生に悔いはない。才能を存分に発揮し、栄華を極め、そして挫折も味わった。これこそが、真の貴族の生き様というものだろう。我が遺した文学作品や、後世の物語に描かれた我が姿が、今なお人々の心を揺さぶり続けていることを知っている。我が人生が、才能だけでは生き抜くことのできない世界の縮図として、後世の人々に何かを伝えることができたのなら、これに勝る喜びはない。我、藤原伊周の魂は、千年の時を超えて今もなお燃え続けている。我が生涯が、あなた方の心に何かを残すことができたのなら、それこそが我の望むところだ。

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